文武天皇大宝元年、造酒司と称して官職を置かれてから、平城宮および皇后宮に奉仕することになりました。
延喜式によると、朝廷酒神を造酒司に祀り、大宮売神四座、酒殿司ニ座の六座となし、大宮売神には大物主神、酒殿司には酒看郎子、酒看郎女を祭られて祭神となし給ふ云々とあります。
また、その社は、大和国三輪山にあって、俗に味酒三輪と称しています。
この社の傍らには杉の樹があって、里人これを塩杉と呼んでいた。
後世に至り造酒家が(酒ばやしと称して)杉葉を多く束ね毬の形にして軒端に掲げたのは、即ち酒神の社頭の杉の樹に因んでである。

また、崇神天皇の御時天下に異災あり、天皇これを憂い、大田田根子に命じて、酒神を祭祀させ給えるに、異災止まった。
八年の夏高橋邑の人活日をして、大神の掌酒となして御酒を造らしめた。

播磨風土記に、大物主神、酒を造らしめ給えることが所々に見えるとあり、「大彦神、是造酒神也、今有其遺跡」云々とあってこのニ神が造酒法を始めて、広く人民に教えたため、後後の世から酒の神と崇められたのでしょう。

その後平城天皇の大同元年九月、すいかんの故を以って使いを遺わして、左右京及び山崎津の酒家を封じて、酒を売ることを禁じたことが「日本後記」に見えます。
後年、武家執政の世に、酒の醸酒額を定め、一屋一壺の外に醸造することを禁じたことなどが「吾妻鏡」に記されています。
様々な制裁があったことは言うまでもありません。